数字のひとり歩き
1995年度の保険医療費は27兆円でした。当時のある指導医療官の感覚では、このうち3分の1がブラック・ゾーンだというのです。すなわち9兆円の不正請求があるというのです。確かに、長い間レセブト審査に携わり、いろいろな不正をみてきた人がこのような感覚をもたれるのは無理もないかもしれません。しかし、医療費請求をしている側からみると、何とまあ、無茶苦茶な数字だということはすぐわかります。なにしろ9兆円といえば,当時の老人医療費6兆円をはるかに上回る荒唐無稽な数字ですから。
実際、「不正請求」として保険者に返還されるのは年間約20~30億円であり、その多くはいわゆるマスコミのいう「不正請求」ではなく、記号、番号の転記ミス、病名漏れなどによる過誤請求であることは、毎月レセプトを作成する我々にはよくわかっています。しかし、週刊誌、テレビなどの軽薄なマスコミによって、この数字がひとり歩きをはじめ、医療費30兆円台の現在では「不正請求10兆円」となってしまったのです。
都内のある老人ホームで、91歳の男性が心筋梗塞でショックを起こし、病院に運ばれ除細動で息を吹き返し、ペーシングしながらアンギオをやって、ステントを置いて、元気になって退院した例があります。一昔前なら点滴の1本でもして「ご高齢ですので…、ご臨終です」と医療費も安く済んだのでしょうが、医療技術の進歩で多くの命が数われるようになった反面、医療のコストもそれなりに多くかかるようになるという好例でしょう。このような医療技術向上に伴う医療費の増大、高齢者増に伴う自然増まで無理やり抑制しようとして利用してきたのがこの10兆という数字だと思います。
しかし、さすがに10年以上もたってこの数字の効力が薄れてきたので、かわりに最近強調されるようになったのが開業医の月収211万円という数字です。ただし、これは法人化開業医の給料で、高収入の方だけの平均をとっており、何の意味もない数字です。しかし、一般の人は「月200万以上も儲かるのか、いいなー」となって、そこで診療報酬抑制という世論の後押しができてしまいます。政治家もだまされて,小泉さんまで-確かあの時は217万円でしたが----「国の財政が苦しいのに、そんなに収入があるなら医療費を削減しろ」となったことはご存知のとおりです。
1千兆円という膨大な国・地方の借金額で国民の不安感を煽り、医療費を抑制しないともっと大変なことになると国は世論誘導し、医療費抑制策を続けてきました。この結果、全国の自治体病院が赤字増大、閉院、診療料縮小に追い込まれ、疲弊した中堅勤務医の「逃散」などにより医療崩壊という危機に陥ってしまいました。したがって、国民に医療の実態をよく説明し、適切な医療政策の舵取りをしないと、本当に行き着くところまで行ってしまうのではないかと私は危惧しています。