将来のために記録を残す
私の診療所では上部消化管内視鏡検査(いわゆる胃カメラ)を行っておりますが、その第一の目的は胃癌を発見することであります。進行胃癌は誰が見ても明らかですが、小さな早期胃癌は慢性胃炎との区別が難しく、病変を見てもそれを癌と認識することは実はかなり困難です。このような病変は「胃炎類似胃癌」と呼ばれていますが、こういった癌を見落とさないようにするためにはどうすればいいのでしょうか。
私の所属する目黒区医師会では2ヵ月に1度消化器がん研究会を開催しております。胃癌が見つかると、その胃カメラ所見を持ち寄り検討するのですが、そこで重要なのはその患者さんが過去に受けた胃カメラの所見と比較することです。早い話が、前回見落としたのでは? ということを検証するのです。
胃カメラでは、病変部の写真だけを撮るのではありません。通常20枚から50枚程度の写真を撮り、胃全体を記録に残します。どこにも癌がなかったことを示すためですが、万が一将来この患者さんが胃癌になったときに、その部位が以前どうだったのかを検証できるようにするためでもあります。
実際には、明らかな「見落とし」はめったにありません。しかし、前回の所見を改めてよく見ると、微妙な色調の変化があったり、わずかに粘膜面が陥凹していたりすることはときどきあります。この時点ですでに癌だったのかどうかはわかりません。しかし、「こういう所見はもしかしたら癌の前兆かも」という経験を蓄積することは重要で、その経験が次の早期癌の発見につながります。医学も医療も完全なものではありませんが、少しでも精度を高めて人々の役に立つためには、過去の経験から学ぶ姿勢が不可欠であると思います。
新型コロナウイルス感染症は、いわゆるスペイン風邪以来の100年ぶりのパンデミックといわれております。「人流を抑制すれば感染は抑えられる」「濃厚接触者は14日間自宅に隔離する」など、さまざまな仮説が立てられ政策として実行されております。今回私たちが何を根拠にどのような判断をしたのかということは、100年後に起きるかもしれない次のパンデミックのときにきっと役に立つと思います。政策決定の過程を記録に残すことは、今回のパンデミックにかかわった者にとって将来の人類に対する責務であるといえましょう。100年後の人たちに「100年前の人たちは立派だった、彼らから学ぶことが大切である」と言われたいものですね。