医学博士 ルネッサンス
最近、在学中から医学博士を取らないと決めている医学生が少なくないという。持っていなくても困らないし、取得するためには大学に残って、膨大な時間と手間をかけねばならないというのが理由のようだ。以前から「足裏についた米粒」といわれていた。「取らなくても困らないが、取らないと気持ちが悪い」という意味だ。若い医師にとっては、専門医の資格があれば十分ということなのだろう。確かに日常診療には専門医の資格の方が役にたつかもしれない。患者も自分の主治医が医学博士かどうかは知らないと思う。
しかし、これで本当にいいのだろうか? 日本の医学研究に支障がでるかどうかは別にして、私は学位を取る過程そのものが、いい臨床医を育てる土壌のように思えてならない。
私は、大学の医局時代、午後6時まで外来や入院患者の診療を行い、夕食を食べ、7時頃から研究を開始して終電で帰るという日々を過ごしていた。医局員が多かったため、留学やベッドフライも、本人の希望を聞いてもらえる環境にあったが、私は日々患者を診る道を選んだ。これは、私の唯一の自慢だが、医者になってから40歳で開業するまで、ベッドを離れたのは、「流行り目」で余儀なく出勤を止められた2週間だけだ。学位の取得は一つのテーマをやり通した証で、学位を取ってはじめて、一人前の医師という考え方が、当時は主流であったように思う。
肩書きに医学博士を載せない医師も少なくない。かくいう私もその一人だ。「皆、持っているのだから、あえて書く必要もない」。そう思っていた。しかし、それではいけないということに気づいた。医学生や研修医、若い医師達が「書く値打ちもない資格」と思ってしまうからだ。新研修医制度が若い医師の大学離れを招き、医療崩壊の一因になったことは明白であるが、医学博士の相対的な価値の低下がそれに拍車をかけているのではないだろうか?
専門医の資格は確かに意義がある。しかし、学会加入歴、臨床経験があれば、机に座って一定期間勉強すれば取得することができる。ファミコン世代には向いているのかもしれない。一方、医学博士の資格は、机に座っているだけでは取得できない。行動し、立案し、多くの医師、研究者、コメディカル、患者との触れ合いの中で、自分自身の考えをまとめ、過去の報告と比較検討して、文章にして呈示するという過程が必要だ。その経験は、地域医療に関わる実地医家にとっても、必要不可欠なものだと思う。
医学博士の意義を再認識する時だと思う。そのためには、単純ではあるが、『医学博士の肩書きを必ず書く』ことを今日から実践したい。「ひまわり」にも専門医の情報はあるが、医学博士はない。各医会加入の有無の掲載も含め、こういうところから変えていく必要があろう。行政にも働きかけていきたいと思う。